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​​関口流抜刀術の歴史

    関口流系譜

関口流は江戸時代初期に紀州藩士関口八郎左衛門實親(当流伝書によれば實親別に氏業と記入した書もある)先師が創められた流儀である柔術から出た流派にして懸声は無声発声発ふくみ声の三声を使い時に飛違い業よく使う激しい刀法である関口流には形と言う言葉なく業と謂特色上系統多く私の流派は肥後に伝わり一名肥後流とも呼ばれているものである

 流祖 関口八郎左衛門實親

一に氏業隠居後は魯伯と号した、関口家の祖は遠州今川家の一族で曾祖父は今川義元の妹婿関口刑部大輔氏興(一書には小輔親永)である、實親は父柔心に刀槍柔術などを習い豪勇であった、承応三年紀州藩を辞して諸国修行の旅に出、後江戸の芝浜松町に道場を開いたが延宝元年紀州藩に帰参頼宣公ら仕えて五百五拾石を給せらる

​正徳六年四月二十二日八十七才で病死門弟には信州松代藩主真田伊豆守 澁川伴五郎など数多くあった


 二代 澁川伴五郎義方

初め関口柔心に学び後破門せられ澁川流をたてたが魯伯武者修行の折り出逢い負けて魯伯の門下となった

延宝八年五月二十九才にて関口流の免許皆伝を得て和歌山城下に道場道凝館を開いた

天和元年頃江戸に出て芝の西久保城山に道場武義堂を開き菅谷某と云う柔術の達人と三田の佛乗院で試合をして勝ち有名と成、門弟三千人と称せられた、さらに老中阿倍豊後守、老中土屋相模守、土佐藩主山内公などの後援を得て名声は大いに高まった

文才があり「貭直鈔」「柔術百首」などの著述を残した宝永元年五月に五十三才で死んだ、高輪の泉岳寺に墓がある

 三代 井沢十郎左衛門源長秀

一に七郎左衛門、寛文八年熊本藩士銃砲頭江戸詰四百石名は節、号は享斉また蟠龍軒、蟠龍子、山崎闇斎の門人

神道國典に精しく又漢学に通ず著書多く「武士訓」「明君家訓」「神道訓」「大和女訓」「俗説辨」「新俗説辨」「肥後國地誌略」「菊池軍記」等がある、肥後に於ける関口流抜刀術の始祖である以下肥後に於ける関口流を一名肥後流とも称す

​享保十五年十二月二日死亡六十三才

 四代 井沢十郎左衛門源長勝

はじめ友右衛門、熊本藩士居合師役

 五代 井沢政右衛門源長明

一、傳右衛門、熊本藩士御番方

 六代 大里右金吾宇治惟翰

一書には種朝熊本藩士

 七代 井沢十郎左衛門源長保

一に十郎左衛門居合師役、先代政右衛門長明の代に世禄より五十石減せられたが、後五十石返し下された

 八代 井沢勘兵衛源長常

熊本藩士居合師役

 九代 谷久左衛門永勝

熊本藩士

 十代 向坂平右衛門藤原正常

熊本藩士

 十一代 谷十三郎源永質

熊本藩士

 十二代 野田甚内藤原氏種

熊本藩士

 十三代 大石永勝藤原永勝

熊本藩士

 十四代 青木規久男藤原久勝

号鉄心、明治十九年十二月一日生

明治三十二年十月、二天一流山東清武より目録相伝

同四十年免許皆伝

同四十二年第八代相続

昭和六年十二月関口流抜刀術師範大石永勝より介錯の巻相伝

同八年関口流抜刀術免許皆伝

同八年関口流抜刀術第十四代相続

昭和八年大日本武徳会居合道錬士允可

日置流弓術教士允可

小堀流水踏術「甲冑を着用水泳術」免許皆伝

昭和三十一年五月五日全日空居合道連盟教士允可

昭和四十一年大日本武徳会範士允可

昭和四十四年二月十一日午前八時死亡、熊本県島崎岳林寺葬去年八十五才、

目録相伝者

亀谷鎮 岐阜県 昭和九年十一月八日

辻守昌 山梨県 昭和十年五月五日

 昭和二十三年死亡 医学博士

木原 昭和十年五月五日

松本政廣 熊本県 昭和二十三年五月五日

清長忠直 大分県 昭和三十年五月五日

松本政廣昭和十年大石永勝先生より介錯の巻相伝、大石先生亡後青木先生に師事し抜刀術目録相伝

亀谷鎮 昭和九年三月介錯の巻相伝

    昭和九年十一月八日目録相伝

    昭和三十一年十月一日抜刀術免許皆伝

    昭和三十二年五月五日第十五代師範継承

​   (亀谷鎮先生著)

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