関口流抜刀術の歴史
関口流抜刀術の根源は、鎌倉幕府倒幕後、果てしなく続く南北朝騒乱の時期に
関口家は本家今川家の重臣となって230年間の戦乱を乗り越え安泰をささえた。
その生死を経て関口家子々孫々に秘伝として継承されてきた武術である。
関口家は、足利尊氏一門・三河足利長氏の子国氏が今川の祖である。
国氏の子太郎基氏が今川家系となる。
基氏の弟常氏は今川と名のらず関口と称した。常氏は二代で没したので常氏の
弟経国が関口家初代となる。
関口流抜刀術歴史
関口流抜刀術の根源は、鎌倉幕府倒幕後、果てしなく南北朝騒乱の時期に関口家は
本家今川家の重臣となって230年間の戦乱を乗り越え安泰をささえた。その生死を経て
関口家子々孫々に秘伝として継承されてきた武術である。
関口家は、足利尊氏一門・三河足利長氏の子国氏が今川の祖である。
国氏の子太郎基氏が今川家系となる。基氏の弟常氏は今川と名のらず関口と称した。
常氏は二代で没したので常氏の弟経国が関口家初代となる。
故に関口家は今川家の重臣である。
今川家の家系は、初代範国(駿河・遠江守護) 二代範氏(駿河・遠江守護)弟は
貞世(九州探題・安芸、築後、豊後、肥前、大隈)貞世の弟仲秋(侍所頭人肥前、肥後後江、尾張守護)
三代泰範 四代範政 五代範忠 六代義忠 七代氏親 八代氏輝 九代義元 十代氏真
九代今川義元の時、西暦1549年(天文18年)徳川家康が人質(単なる人質ではなく義元に期待された少年)
として駿河に着く。家康は8歳から19歳まで府中で生活する。
この頃関口義広(氏広)の娘と徳川家康が結婚した
関口義広の妻は今川義元の妹だから、家康は今川義元の姪と結婚したことになる。
西暦1560年(永禄3年)桶狭間で織田信長の奇襲攻撃により今川義元は没した。
西暦1562年(永禄5年)持舟城主関口刑部少輔(氏広)自刃。今川氏真(義元長男)は
関口氏広が徳川に密通したと疑い、暗殺をせまり自刃させた。
西暦1600年(慶長5年)関が原の合戦・慶長5年7月伏見城を守る鳥居元忠が最後に送った使者が
西軍の旗上げを告げた。この報告を受け家康は素早く東軍を結成し、関が原の合戦で勝利を得る。
西暦1613年氏心(16歳)は家康につれられて江戸に行った。
西暦1621年(元和7年)明の国の豪商が日本と商取引をする為に二代将軍の謁見を得て江戸入りをした。
陳ゲンピンは明の国の豪商の護衛として来た。
陳ゲンピンは幕府の計らいで江戸芝飯倉西久保に有る国昌寺に滞在することになった。
明国の商団の世話役の一員として氏心が選ばれた。元和7年から寛永4年までの
約3余年間国昌寺に滞在して商取引をした。
陳ゲンピンは豪商の護衛中敵に遭遇すると、動物の様に、跳ねたり、木に飛びついたり、
屋根に飛び上がったりしてまるで猫の様に身が軽く、馬の様に強く人を蹴った。
刀を抜かずして相手を仕留めた。この唐の拳法に大いに感動したのが氏心であった。
氏心は秘かに唐の拳法を研究した。
西暦1651年参勤交代で江戸に来ていた紀州藩主頼宣は、氏心の長男氏業の剣術がすごかったので
幕府に願い出て、紀州につれて行った。
氏業は1654年紀州を辞して江戸に帰るが、東国武者修行の旅に立つ。紀州に仕えたのは3年ぐらいである。
<渋川伴五郎義方肖像>
一方江戸関口家道場では、氏業留守中に渋川伴五郎が入門し、氏心の明の拳法と関口流を修得したが、
長い太刀で立合うより明の拳法の方が新時代の武術と信じて、明の国の服を着て関口流の道場で
明の拳法と古来より伝承されたる関口流の業を混ぜて、古来の業を変えて弟子達に指導するので、
氏心は伴五郎を破門した。
東国武者修行と視察の任を終えた氏業は江戸の芝浜松町(駿府の地名)に道場を持った。
伴五郎の業の優れたるをみて、伴五郎の剣と柔は新しき日本の武道界に必要であると認識し再び道場の
出入りを許可した。
西暦1680年(延宝8年)伴五郎29歳にして、関口流の免許皆伝を得て和歌山城下に「道疑館」を開いた。
西暦1681年(天和元年)江戸佛乗院で柔術の試合のため江戸に行き、3回試合をして3回とも勝ち有名となる。
この年紀州を辞して江戸の芝西久保城山に道場「武義堂」を開いた。当時門弟3000人とも称せられた。
後に伴五郎は関口流抜刀術第2代目を継ぐ。関口氏心より学んだ柔を更に追求して渋川流柔術の祖となる。
関口流抜刀術
師範継承履歴
関口流抜刀術第十四代 青木 規矩男
昭和三十一年 全日本居合道連盟教士
昭和六年十二月、大石永勝より介錯の巻相伝、昭和八年、関口流免許皆伝(目録)昭和十九年十二月、第十四代師範を相続する。
(備 考)
(青木 茂一)
昭和九年一月、大石永勝より目録相伝、昭和十九年二月、青木規矩男より免許皆伝。
昭和三十年八月 全日本居合道連盟 五段
(松本 政広)
昭和八年四月、大石永勝に入門、昭和二十九
年十月、青木規矩男より目録相伝。
昭和三十年八月 全日本居合道連盟 参段
(辻守昌)
昭和十年五月五日介錯の巻・抜刀術の巻相伝
(木原竹義)
昭和十年・・・介錯の巻
(清長忠直)
昭和三十年・・・目録相伝
関口流抜刀術第十五代 亀谷 鎮
全日本居合道連盟範士 十段
昭和九年三月青木規矩男より介錯の巻相伝、同年十一月関口流免許皆伝(目録)昭和三十二年十月関口流兵法極意指南、及び口伝を伝授し青木先生の信条書により第十五代師範を相続する。
昭和三十一年 全日本居合道連盟 錬士
関口流抜刀術の相続は、目録の皆伝取得後に兵法極意を習得した後、先代の信条書により相続するものである。
青木先生も大石先生からの相続は、目録の皆伝から10年以上隔てており、入門から考えると20年以上の修行をしたことになる。
亀谷鎮も皆伝から23年以上を隔て相続してます。
第二次大戦の昭和16年から戦後の昭和29年頃までは米軍からの規制等にて空白の13年間を除いても目録皆伝から約10年の歳月を経ている。
昭和32年に関口流抜刀術十四代の青木先生より亀谷鎮が十五代を相伝した時の技の写真帳です。
基本の座の十一本(江戸期までは十二支で十二本までの技がありましたが、武士の士を取って十と一で十一本としたそうです。)の免許皆伝の授与をし、立合技他、口伝による奥伝や緒作・諸法等50年近くにわたる師弟関係のなかにて伝授しました。
左写真の信条書は亀谷鎮が目録皆伝の後、関口流兵法を習得し青木先生からの信条を宛てた記述書となっており、それにより上記書記により師範を相続するものである。
関口流抜刀術第十六代宗家 萱間志津子
全日本居合道連盟範士 九段
昭和五十五年三月、亀谷鎮より介錯の巻相伝、同年関口流免許皆伝、昭和六十二年五月、関口流兵法極意指南、及び口伝を伝授し第十六代師範を相続する。
平成十三年十一月四日 全日本居合道連盟全国個人段別競技大会
女子七段之部 準優勝
職業
全国珠算教育連盟 萱間珠算教室経営
全国珠算教室連盟 珠算教育段位十段
(備考)
(萱間勝秀)
平成十四年七月十日 萱間志津子より介錯之巻・目録相伝
(石井紀子)
平成十四年七月十日 萱間志津子より介錯之巻・目録相伝
(小佐野淳)
平成十四年七月十日 萱間志津子より介錯之巻・目録相伝
(若月一美)
令和六年三月五日 萱間志津子より介錯之巻・目録相伝
関口流抜刀術第十六代師範代 萱間 勝秀
全日本居合道連盟教士
平成十四年七月十日 萱間志津子より介錯の巻相伝、同年同日目録相伝
全日本居合道連盟 第27回全国個人段別競技大会
男子七段之部 準優勝
職業
総合ビルメンテナンス業
会社経営
関口流抜刀術と全日本居合道連盟
全日本居合道連盟は昭和29年5月に創立された。
昭和20年8月、日本は敗戦国となり我国は焦土と化し、食する物が無く生きる事に精一杯でした。それでも日本人の底力は強く、大和魂を取り戻し、経済の発展と文化活動にと積極的に動き出した。
昭和30年 5月
第1回全日本居合道全国大会が京都で開催された。参加者の多くは宿泊する金銭が無いため、お寺や木の下で寝 たそうです。刀が無くて参加申し込みが出来ず、会場で見学していると、「これ使って下さい」と貸してくれる剣士もいて、借り物で試験を受けたとも聞きまし た。又居合道大会なのに棒術対居合形、空手に対する居合形などさまざまでありました。無条件降伏をした日本がわずか10年で、日本固有の伝統文化を復活さ せた。
昭和31年4月29日
天皇誕生慶祝全国各流武道大会が明治神宮外苑相撲場で開催。